戦後初の全国中学校優勝野球大会を復活させ、主賓として祝辞を述べるポール・ラッシュ
第1回ライスボウルで始球式を行うポール・ラッシュ



Episode-2
焼け跡のキックオフ  Here we are againに込めた涙の叫び
山梨県アメリカンフットボール協会理事 井尻俊之


◇日本復興の誓い立て、東京の廃墟に帰還果たす

 日本が戦争に敗れた昭和20年9月、米国占領軍GHQの将校としてポールは再び日本に戻ってきた。初めて日本にやってきたとき、東京と横浜は関東大地震により一面の廃墟となっていた。それから20年後ポールが眼にした東京は想像を絶する地獄だった。街は爆撃により再び廃墟となり、家や親兄弟を喪った人たちが亡霊のようにさまよい、大地は死者の血に染まっていた。数千年の古い文化を誇り、近代文明を築いていたはずの国家が、政治、経済、社会の仕組みを完全に崩壊させてしまった。日本人がこれほどの絶望におそわれたのは空前絶後のことであろう。米国への宣戦布告を行った昭和16年よりわずか4年足らずのことだった。

 敗戦により日本国民は進路を見失い、救いを必要としていた。自己の身命を日本のために捧げることを決意していたポールは、最も早く東京に戻る方法として自らGHQに志願した。またGHQも円滑な占領政策の推進のため、戦前立教大教授として幅広い人脈を日本に築いていたポールのキャリアを必要としていた。
 GHQ総司令部が置かれた皇居前の第一生命ビルに陸軍少佐として着任したポールが真っ先にやったことは「戦時中、軍部によって禁止されたスポーツ、特に真っ先に野球を1日も早く復活することは民主日本の復興のため、民心を安定させる最良の方法である」とマッカーサー元帥に、スポーツ復活を進言したことだった。

 元帥の承認を得て、ポールは直ちに文部省にスポーツ復活の指令を出した。ポールはCIS(民間諜報局)の所属で、文部省への指令は越権行為であった。しかし、占領初期の混乱期であるため、公式記録には残されていないが、戦前に学生スポーツに深く関わったポールのキャリアから言っても、この時期のGHQスポーツ復興政策はほぼポールが先導していたと見てよい。
 その有力な証拠として、20年12月ポールは戦前から親しくしていた新聞記者を集めて会見を行い、GHQ将校として、次のように日本の社会復興、スポーツ復興の声明を出した。

◇ポールがGHQ将校として、日本のスポーツ復興を宣言

 「私は戦前17年にわたる在日経験から自分の任務を果たすべく再度日本に来たが、日本は平和と民主主義愛好国転換に必ず成功するものと楽観している。そして、日本再教育の中でも、私は先ずすべての大学、専門学校、中等学校にあらゆるスポーツを速急に復活させることが、日本が国際間に復帰するうえで喫緊事であると考えている。

 私は魔法が使えたら、再度米国野球の大リーグ選手たちを連れ来てきて神宮や後楽園の甲子園で数万の日本野球ファンを喜ばせたい。また戦時中、アメリカで作られた一流の映画やヴィクター、コロンビア、デッカのレコードを沢山紹介したいと思っている。しかし私としてはスポーツの復活を急いでやってみたい。昭和16年12月7日私はJOAKから次のように放送したことを覚えている。

 『今日の日本の典型的な青年はスポーツを愛好し、そして試合に勝ちたいと思っており、さらに彼らは国際試合に日本を代表する機会を得たいとの野望に燃えている。この中で私が言うスポーツなる言葉は、西洋の運動競技を意味しており、古代日本の伝統的競技を言うのではない。日本人のスポーツに対する異常な関心と戦前までに示した顕著な進展ぶりは、日本の古代競技を追放してしまったが、これは日本人の勇敢さや同化作用に対する巧緻さによるものではあるが、西欧のスポーツが日本の剣道や柔道の如く個人的に行われるのでなく、集団的に行われるのが、大きな理由である』と強調しておいた。

 明治3年以来日本における西欧スポーツ発展の記録には、明らかに外国人教師が銘々の好きな競技を日本学生に教えた開拓的努力が認められる。更に日本が陸上並びに水上競技に多くの世界記録を樹立したが、これも日米両国間に絶えず行われたスポーツ交歓によるところが多い。そしてこの日米両国若人による立派なスポーツマンシップの交換は、相互の理解に対する希望が育成されてきた。この相互理解の主義およびこれが達成に忠実ならんことに日本の若者が再び憧れているものと自分は信じて疑わない。

 先日文部省が軍事教練を撤廃してスポーツを復活、特に大学野球リーグ戦の復活並びに各県に野球リーグの支部を設置せんと声明したことは日本の若人に対し「新しき日」をもたらしたものであり、自分は全く同意である。私は重ねて日本に於ける新秩序の建設に際し、速やかに採るべき方法の一つは、特に日本の若者に影響の多い戦時中禁止したあらゆるスポーツの急速なる復帰であることを強調したい。
 野球を全国で復活させることは、心の空白を抱えた日本の若人の空白を希望で満たすためには喫緊事である。
 また東京、大阪の大新聞がリーグ戦やワールドシリーズを速報した電光ニュースの復活も早く実現したい。日本の文部省はスポーツを奨励するばかりでなく、運動競技が学生間に復活するのをよく見届けるべきだ。更に積極的な運動競技の試合が国内のあらゆる学校に復活することを望む。
 日本人にとり米国人をよく理解する方法の一つとして米式蹴球は日本人には一番良い贈り物だと考える。ラグビー同様米式蹴球が神宮や後楽園競技場のスタンドを埋め、そして国内中に広く発達する日の近いことを信じている。そうすれば若人は再び幸福な希望にあふれた日本を取り戻すことができるのだ。」

◇フットボールと真実の瞬間

 ポールはスポーツの全国的な復活を通して、亡国絶望のどん底にある日本を救済しようと構想した。ひとつはフェアプレーを基礎とする民主日本の再生。ひとつは殺し合い、憎しみあった日米和解である。その最良の競技がフットボールであると考えた。

 なぜ、日本復興のためにフットボールなのか。それはこういうことだった。
 フットボールに関わる者は、コーチであれ、選手であれ、チアーであれ、何であれ、まず自分の任務は何かを考えなければならない。「このゲームで自分は何をするべきなのか」。次になすべきことは、自分が共に戦う仲間とともに、自分が達成しなければならないことや、責任を持つべきことについてお互いが必ず理解し合う。ゲームの度に、ワンプレーごとに、この「真実の瞬間」が繰り返される。
 それ故に、フットボールは必然的に人間変革のスポーツとなる。この競技ではチームの一人一人が各自の能力に応じ、自らの役割、使命を理解し、責任を負い、偉大なチームの勝利を創造するために行動する。その競技生活により達成される成果は自尊心をもった人間であり、日本復興を担う若者の姿がそこに示されているのである。

◇ポールは甲子園野球復活の恩人だった!

 ポールは記者発表の通り、真っ先に野球大会の復活に尽力した。まず朝日新聞社に働きかけて国内の運動競技の先頭を切って全国中学校優勝野球大会(現在の甲子園高校野球)を兵庫県の西宮球場で復活させている。全国780校で野球部が復活し、地区大会を勝ち抜いた代表19チームの出場が決まった。
 全国大会の日程は戦争が終わった1周年の日、昭和21年8月15日を期して開催されたことには大きな意義がポールにはあった。
 球場を埋め尽くした4万の大観衆とダイヤモンドに整列した選手。その多くは父母兄弟、親族を戦争で、そして本土空襲で亡くし、また傷手を負って、この日を迎えている。
 人々は悲しみをかかえて、この競技会場に集った。野球を再開するには、死者を追悼し、彼らの分も生きて平和を築いていかなければならない。それが戦争を生き残った者たちの義務でもある。ポールが指令したスポーツ復活の日が終戦記念日であることの意味はそういうことだった。

 大会主催の朝日新聞社は、ポールを戦後初の全国大会開会式の主賓として招待し、野球復活の最大の恩人に敬意を払った。
 ポールの手配により、甲子園球場の上空には、米国空軍の戦闘機が飛来し、歴史的な開会式典を飾ってページェントを繰り広げた。それは空襲の恐怖の使いでなく、平和が訪れたことを告げる天使の使いであった。
 歴史的なスポーツの祭典の復活にあたってポールは「本大会を機に再び野球は日本の若者の血をわかすであろう。オメデトウ、Do your best!」と翌日の朝日新聞に記録された名演説を行い、出場全チームに白球をプレゼントした。この「ドウ・ユア・ベスト(最善を尽くせ)」は、その後、野球界での激励の言葉、選手宣誓での「最善を尽くして戦うことを誓う」という定型句として定着していった。

◇生きてフットボールが出来る喜びと希望

 ポールは野球の復活と同時にフットボールの復活に力を注いだが、フットボールのみならず大学スポーツの復活は簡単にはいかなかった。現役学生、競技経験のあるOBとも戦場に駆り出されていた。ポールは都内に残っていた関東連盟のOBたちを探し出し、組織再生のための準備会を招集した。中心となったのは、加納克亮(朝日新聞)井上素行(早大OB)島クラレンス(立大OB)花岡惇(明大OB)らである。

 しかし、復活の第1歩は関西が先行し、昭和21年2月20日関西、同志社、関西学院の3大学が関西米式蹴球連盟を設立。関東では、6月29日に早、明、立、慶、法、日の6大学により、井上素行を会長、ポールを理事長として関東フットボール連盟が設立された。
 連盟が設立されたが、東京は廃墟となっており、実情は食糧も乏しいなかでボールがない、防具がない、ユニフォームがない、競技場がないのないない尽くしで、スポーツで遊ぶどころではなかった。それでも、連盟に集まった若者たちが競技復活にかけたのは、自分たちが生きてフットボールが出来るという喜びと希望からであった。

 ポールは必死になって米軍のエクイップメント・サービスから22の防具セットを調達。それを連盟が保管して、試合のたびに防具が足りないチームに貸し出した。関東連盟復活初年はリーグ戦には至らず、11月から12月にかけて6大学のオープン戦や紅白戦が行われた。翌22年4月13日大阪毎日新聞社による第1回大学王座決定戦「毎日甲子園バウル」が甲子園球場で開催され、関東代表慶応大と関西代表同志社大で対戦した。結果は慶応が45対0の圧勝となった。
 関東、関西共に正式リーグ戦がスタートしたのは22年秋季リーグからで、関西では京都大が加盟して4大学となった。ポールはこれを祝って、東西の全10大学に米国から取り寄せた新品のフットボールを2個ずつ贈った。現在ならたった2個のボールと思われるかもしれないが、物資のない時代だから、選手たちの喜びようは言葉に言い尽くせないものがあった。

 明けて23年の元旦第2回「甲子園ボウル」が開催され、関大が明大を6-0で下した。引き続き1月17日、東京の明治神宮競技場において、関東の企画として戦前のオールスター戦である東西選抜対抗試合が日本人の主食である米にちなみ「ライスボウル」の名称で再開された。
 この大会には6千人の観客を集め、ポールの始球式で試合開始となった。
 開会にあたってポールは「Here we are again.(我ら再びここに集う)」と簡潔なメッセージとともにキックオフを行った。
 その時、その場所に居合わせた選手、そして観客たちは、等しくポールの言葉に込められた万感の想いを理解していた。学生達は学徒動員以後、死と隣り合わせの毎日だった。生きて再びフットボールがプレーできることは、戦争が終わり平和が戻ったことの証明であり、自分が悲しむ者であることは幸いだった。彼らは多くの仲間を、そして父母兄弟を戦場で、そして本土空襲で喪った。亡くなった仲間たちはあまりにも若く、残された者は彼らの分の人生も背負って生きなければならなかった。始球式をすませ、泣き虫のポールはあふれる涙を抑えることができなかった。
 その日、大会終了後に関東、関西連盟の役員により日本アメリカンフットボール協会が正式に設立され、初代理事長に服部慎吾が選出された。

 日本協会はフットボール50年目の1984年、ライスボウルを東西大学選抜対抗戦から日本選手権へと移行し、これを機会に、試合で最も活躍したプレイヤーに対して、日本フットボールの父ポール・ラッシュの名を冠した最優秀選手賞(MVP賞)を贈り、その健闘を讃えていることは周知の通りである。

(Episode-3に続く)


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井尻俊之:「清里の父ポール・ラッシュ伝」「1934フットボール元年 父ポール・ラッシュの真実」著者、山梨県アメリカンフットボール協会理事。





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