今年は、1934年11月に日本で初めてアメリカンフットボールのゲームが行われて75年周年という記念の年にあたります。

 当時、立教大学のポール・ラッシュ博士によって日本に伝えらたアメリカンフットボールは、現在も多くのファンに支えられ、アメリカ文化と共に日本で愛されるスポーツになりました。

 75周年記念特集として、「フットボールの父 ポール・ラッシュ」の数々の偉業を、山梨県アメリカンフットボール協会・井尻理事に語って頂きます。

 アメリカンフットボールの原点と、戦争を越えて日本を愛し、生涯を捧げた男の生き様を伝えることで、これからの100周年に向けた新たなチャレンジをスタートしたいと思います。



Episode-1 「ダンディズムを貫いたフットボールの父の生き様」
山梨県アメリカンフットボール協会理事 井尻俊之


 関東大学アメリカンフットボール連盟は10月28日、創立75周年を迎えた。連盟では記念行事として、今シーズン以降の25年間を100周年に向けての仕上げのファイナル・クオーターと位置づけ、様々なイベント企画をキックオフした。秋の公式戦全270試合を記念試合として位置づけ、選手・観客が一緒にファイナルクォーターを盛り上げようというホームカミングゲームの開催もその一環だ。
 最終クオーターに向けて作成される戦略や戦術は、これまで75年にわたって数多くの先輩たちが歴史を積み上げてきた結果であるから、その熱き想いをボールに込めてエンドゾーンまで運び、得点に結びつけないといけない。これまで何が起こったかを知らなければ、今後のゲームプランを立てることも難しい。われわれは歴史に学び、歴史に勇気づけられる。じゃあ、いつ学ぶのかって? もちろん今この瞬間だ。 Here we go.



 関東学連の歴史の始まりは、昭和9年10月28日、立教大五番館において創立された東京学生アメリカンフットボール連盟が原点である。創設に参加したのは立大、明大、早大の3校。このたった3校から日本のフットボール界は歴史的第1歩を踏み出した。それはそのまま日本のフットボールの始まりでもある。
 東京連盟の初代理事長を務めたのは、当時立教大教授であった米国人ポール・ラッシュ博士である。だが、フットボールに詳しい人でもラッシュ博士について、「日本アメリカンフットボールの父」であること、正月の日本一王座決定戦「ライスボウル」のMVPに授与される栄誉杯に彼の名前が刻まれていることくらいしか知らないではないだろうか。
 「ポール・ラッシュって何者?」「一体何でフットボールの父なんだ?」

 アメリカンフットボールの父ポール・ラッシュ(以後親しみを込めてフットボールの父ポールと呼ぼう)。ポールが何者であったかを一言で語るのはきわめて困難な作業だ。
 ある時は第1次世界大戦のフランス戦線に出征した兵士、ある時はニューヨークのホテルマン、ある時は教会の宣教師、ある時は若者から親父と慕われる大学教授、ある時は昭和天皇と皇室を守ったGHQの将校、ある時は吉田茂首相の相談役、ある時は日本の山間高冷地の酪農開拓者、最後は侍のスピリットを持ったアメリカンヒーローとして日本に骨を埋めた。
 だが、彼の生き方は生涯かけてぶれることなく、200億円近い募金を米国でかき集め、日本の復興のために働いた。信じられないことだが、昭和54年12月12日ポールが東京・聖路加病院で亡くなったとき、1円の私財も残されておらず、所持品はパジャマと歯ブラシだけ。すべてを日本に捧げた。彼は究極のスポーツであるフットボールにふさわしい波瀾万丈、疾風怒濤、カッコいい生き様を貫いた男だった。(本年が没後30周年!)
 ダンディズムが「生き方・姿などが美しい」、「ほれぼれする」など男の生き様の美学を指す言葉として使われるのであれば、われわれはまさにポールにこの言葉を捧げる。われわれは、そのダンディズムを生きて、不借身命すべてを日本に捧げた男を「フットボールの父」と呼ぶ。だからフットボールはかっこいいスポーツなのだ。

◇天性の組織作りの才能が東京で開花

 父ポールの略歴を見ておこう。彼は1897年11月25日生まれ、米国ケンタッキー州ルイビル出身。第1次世界大戦に兵士としてフランス戦線に出征。帰還した後はニューヨークでホテルマンとして働いていたが、1925(大正14)年4月、関東大震災で破壊された東京・横浜のYMCA会館の再建委員として国際YMCAから派遣され、初来日となった。ポールは応募の動機を「行く先は何処でも良かった。猛烈に旅がしたかった」と語っていた。
 再建の仕事が終わり次第帰国する予定のポールだったが、彼の働きぶりを見ていた立教大学理事長のジョン・マキム主教に頼まれ、昭和元年5月同大の経済学教授として1年の約束で着任した。

 マキム主教がポールを抜擢した理由は、天性ともいえる組織作りのリーダーシップと面倒見の良さだった。大学に着任すると職員寮として五番館が与えられたが、間もなく早稲田大学の商業英語の教授も兼任するようになったため、昼、夜の区別もなく学生のたまり場となってしまった。その当時の東京の大学に留学していた米国の日系2生たちも、ホームシックの癒しの場として五番館に出入りするようになり、ポールのふるまうサンドイッチをぱくつくのが常だった。これが後に「五番館ボーイズ」と呼ばれ、さまざまな学生活動の母体となった。

 ポールにとって、最初の学生組織づくりとなったのが英語会大学連盟である。昭和2年、早稲田、明治、立教など5大学で個別に活動していたESS(英語会)の学生たちに呼びかけて設立した。学生発起人は立教大の教え子である小川徳治と五番館に出入りしていた明治大学生の松本滝蔵が中心となった。ポールがスポンサーとなって東京・飛行会館で英語劇コンテストを開催するなど名物イベントが開催された。
 小川、松本はその後、米国の大学に留学し、本場アメリカで人気スポーツとなっていたフットボールを体験したことが昭和9年、東京学生米式蹴球連盟設立の伏線となる。(後に二人ともフットボールの殿堂入りする)
 また昭和2年、ポールは小川ら立教大の教え子とともに聖徒アンデレ同胞会を創始し、東京の大学に広めていった。YMCAと同様にイエス・キリストの教えを広く青年の間に広める伝道組織で、昭和13年には山梨県八ヶ岳の清里に青少年キャンプとして、「清泉寮」を建設している。

◇聖路加病院は20代のポールが募金した120億円で建設された!

 翌昭和3年、ポールの人生を決定付ける大きな出来事が起こる。関東大震災で破壊された東京・聖路加国際病院のトイスラー院長から病院建設募金委員に指名されたのだ。つまり、ポールは立教大から聖路加病院に貸し出されたが、どちらも米国聖公会という教会組織の伝道事業であり、問題はなかった。
 病院の募金目標額は260万ドル、現在の価額に換算しておよそ120億円。計画は米国内の市民に募金を呼びかけ、集めたドルで東京・築地に東洋一の規模で世界最高水準の慈善病院を建設をすることだった。

 この途方もない計画は東京市民には不可能と思われたが、わずか20代の若造だったポールはトイスラー院長の指示に従って、ニューヨークに募金本部を置き、昭和6年までの3年間で見事に達成してしまった。その秘密は、聖路加病院建設が米国聖公会の伝道事業であり、大富豪であるロックフェラー財閥やモルガン財閥が全面的に協力したためであった。

 聖路加国際病院は昭和8年、築地に落成し、鶴が翼を広げたような美しいネオ・ゴシック様式からたちまち昭和の名建築とされた。事業面ではX線写真を駆使した近代医療が貧しい人々のためにチャリティ提供され、現在に至るまで日本にモデル医療を提供する存在となっている。築地・聖路加は、米国市民の善意の結晶であり、日本に本物の「アメリカンドリーム」を伝え、東京市民の心を熱くさせた。

 Do your best and it must be first class.(最善を尽くし、かつ一流であれ)
 ポールが日本の若者に残したメッセージである。フットボール関係者もよく引用する、この名句は、聖路加の募金活動を通じてトイスラー院長からポールに伝授された。それは最善を尽すばかりでなく、その成果が一流であることを求める厳しい激励の言葉でもある。
 120億円という奇跡に近い募金額、しかも成果物は東洋一の美しいばかりでなく、最新の近代医療を備えた超一流の病院であり、日本人にとびっきりの夢を伝え、2009年の現在まで日本の医療をリードしている。ファーストクラスとはそういうことだった。

 この募金の成功で、ポールは「キリスト教の教えと共に米国の近代的な文化・文明を日本に伝え、社会発展に貢献したい」と自己の使命に目覚めた。そのころ、彼は故郷に残した許婚者に日本への同行を求めたが、断られてしまった。日本と彼女とどちらを選択するのか。ポールは日本を選び、そのまま生涯を独身で過ごした。つまり、彼は日本と結婚したのだった。こうと決めたら、とことんまでベストを尽くすのが、プライドのある男の生き方だと彼は教えているが、ポールの場合スケールが並外れている。

◇東京学生アメリカンフットボール連盟を創立

 昭和9年、立教大五番館に出入りする日系2世の学生の数はさらに増えていた。米国の日系1世は日米2つの国籍を持つ子供たちを、為替相場の円暴落により格安の学費で進学できる東京や関西の大学に送り込んできたのだ。2世の学生たちが、米国の大学スポーツの華となっていたフットボールを日本に紹介しようという動きは自然に発生した。同年10月28日、立教大五番館で発足した「東京学生アメリカンフットボール連盟」では、設立作業を五番館ボーイズでESS大学連盟をまとめた小川徳治、松本滝蔵が中心となって担当した。二人は米国留学から帰国後、それぞれ立教大教授、明治大学教授に就任していた。また競技指導をオハイオ大学で選手経験があるジョージ・マーシャル教授が担当することになった。

 同年11月29日、連盟は競技紹介のためエキシビジョン・ゲームを神宮競技場で開催。立・明・早大選抜チームと横浜YCACの外国人チームが対戦した。会場には、約1万5000人もの観衆が詰め掛け、予想外の大成功となった。この公開試合の1ヶ月後12月26日、大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)が創立。沢村栄治、スタルヒンらが入団し、日本のプロ野球が始まった。つまり関東学連と読売巨人軍は同じ米式スポーツとして同い年の兄弟だったわけである。

 だが、米国スポーツの華であるフットボールや野球の成功とは裏腹に当時の日米関係は悪化し続けていた。昭和6年、日本軍は中国大陸で満州事変を起こし、たちまち満州全土を占領するとともに満州国の建国を宣言。国際世論の反発を受けた日本は8年3月、国際連盟を脱退。米国では日本への経済制裁の動きが強まっていた。

 日本で最初のフットボール公開試合において、来賓のグルー米国大使は、フットボールの日本における普及、発展の重大使命について「スポーツを通じ日米青年の親善を増進せしめんためにはこの競技をおいて他になし」という趣旨の祝辞のなかで、あの有名な名演説を残した。
 「フットボール競技は意志強固にしてスピードと忍耐力を充分に備える者にとってのみ許され、価値あるものであって、日米国民の習慣、生活態度及びスポーツに対する態度から見てこの競技は全く日本国民に好適なものである」
 このグルー大使のメッセージは、日本人フットボーラーのための競技信条として語られたものであるが、75年後の今読み返しても、実に深い意味を持っている。

 だが、ポールの平和への希求もむなしく、日本軍の戦火は中国大陸の各地に広がり、中国に関心を持つアメリカと日本との対立も深刻化していった。昭和16年に入ると、米国聖公会は日本に派遣していたすべての宣教師に国外退去命令を出した。だが、ポールは命令に抵抗し、日本で平和のために活動する道を選んだ。立教大に残る米国人宣教師はポール一人だけとなった。
 同年年12月7日、ポールは東京・内幸町のNHK放送会館でマイクを前に「日本スポーツへの米国の貢献」をテーマに語った。この番組は短波放送により米国に送信され、各地のラジオ局に転送された。「日米の青少年の間で行われてきたスポーツマンシップの交流は偉大な両国の相互理解と友好の大きな架け橋であり、真の平和と友好をもたらすものだ」。ポールはフットボール連盟のトップのプライドをかけて米国市民に訴えた。

 しかし、現実は非情だった。翌12月8日、NHKラジオは帝国陸海軍が太平洋において英米軍と戦闘状態に入ったことを告げた。結局、ポールは日米開戦の前日まで戦争回避と平和の道を電波で訴えた最後の人になった。明けて9日早朝、ポールは特高警察により敵国人として逮捕され、田園調布の収容所に送られた。ここで7ヶ月の抑留生活を送り、17年6月米国へ強制送還。その直前、ポールは立教大五番館とチャペルへ立ち寄りを許された。チャペルの壁には戦場で亡くなった教え子たちの名が「戦没記念者」として無数に刻まれていた。ポールは教職員や教え子たちと別れを告げながら、男泣きに泣いた。このとき、立教の服部慎吾(後に日本協会理事長)ら在京のフットボール部員らは300円をカンパしポールに感謝の気持ちをこめて餞別を贈った。ポールはあふれる涙を抑えようともせず「俺は必ず帰ってくる」と手を固く握りながら語ったという。
 翌18年8月軍部は国内のすべてのスポーツ活動を禁止。こうしてフットボールの灯はいったん消えた。

Episode-2に続く)


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井尻俊之:「清里の父ポール・ラッシュ伝」「1934フットボール元年 父ポール・ラッシュの真実」著者、山梨県アメリカンフットボール協会理事。





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