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山梨県アメリカンフットボール協会理事 井尻俊之 | ||
◇皇室とアメリカンフットボールの最初の出会い 今からちょうど75年前の昭和9年11月29日午後3時、日本で最初のアメリカンフットボールの公開試合は東京の明治神宮外苑競技場でキックオフされた。開催準備に当たった東京学生アメリカンフットボール連盟初代理事長のポールは、開催日が木曜日で平日であったため、2-3千人も来れば大成功だと予想していたが、実際には競技場は1万5千人の大観客で埋まったことはEpisode-2で紹介した。この観客数は当時の昭和初期の社会情勢から言って、とんでもない動員数であったが、この大観衆に驚いたのが主賓として招かれた秩父宮様だった。 ポールが皇室から秩父宮を大会に招いたことには、一つの意図があった。まだ競技団体として発足したばかりで、先行きの見通しもないアメリカンフットボールを、しっかり国民スポーツとして認知してもらい、また選手を競技普及へ大奮起させる、とっておきのオプションプレーが、競技と皇室との関係を深めることだった。これは現在でも大事なことであるが、天皇が神であった戦前であればなおさらであった。 特に秩父宮はその当時、スキー、ラグビー等スポーツへの理解が深く、競技振興の先頭に立って尽くした功績から「スポーツの宮様」として広く国民に親しまれていた。現在でも秩父宮ラグビー場、秩父宮記念スポーツ博物館にその宮号を遺している。ポールはそれを承知で、宮様をお招きしたのである。 しかも、秩父宮の試合解説者として、名門ハーバード大学でフットボール選手であったジョゼフ・グルー米国大使を依頼したことは、スポーツを通じての日米交流に格好の舞台を提供したことになる。75年前のポールの来賓手配が、21世紀の今、スポーツの試合で簡単にできるのかどうかを検討してみると、ポールの非凡な社交の力量が際だって見える。では、どうしてこのようなことが可能だったのか。 その秘密は、ポールが聖路加国際病院のトイスラー院長の秘蔵っ子として、院長が日本政財界に築いた人脈を継承していたことにある。病院は米国聖公会のキリスト教伝道事業であったが、トイスラー院長が米国市民の献金により日本の貧しい人々のために慈善医療に献身する姿には、宗教の壁を越えて日本政財界の重鎮たちの理解を獲得していた。とりわけ皇室がトイスラー院長に感謝を表明し、病院の建設費として昭和天皇よりトイスラー院長にご下賜金を贈られたことは、建設募金秘書であったポールの名誉でもあり、戦前における日米交流の美談であった。 このため、昭和8年6月の聖路加国際病院の開院式典で、トイスラー院長は高松宮を主賓としてお招きし、グルー米国大使、米国聖公会のペリー主教(日本を開国させたペリー提督の孫)ら日米のトップクラスの臨席を実現している。 翌昭和9年11月のフットボール公式試合において、秩父宮をはじめ高貴な主賓の招請は、ポールがトイスラー院長の人脈を通じて手配したものと見るのが妥当であろう。とはいっても、トイスラー院長は、この年の8月10日聖路加で死去しており、ポールは人生の師を失った悲しみの中で、フットボール伝道の作業を進めていたことになる。 ◇日本最初の公開試合を成功させた秘密と球聖ベーブ・ルースとの交流 話は皇室から少しはずれるが、日本最初のフットボール公開試合における観客動員の原動力は、ポールが運営に関わっていた数多くの学生組織だった。公開試合で、東京学生選抜チーム(早・明・立)の対戦相手となったYCAC(横浜カントリー・アンド・アスレチック・クラブ)は、同クラブのハリス兄弟の斡旋で対戦が決まった。その理由について、故小川徳治氏(フットボール殿堂入り)は「ハリス兄弟は、英国人でラグビー、ホッケーの選手だった。ポールが立教大学でアマチュア・ドラマチック・クラブを創立して、そこにハリス兄弟も参加していた。帝国ホテルで英語劇の発表会をやったことがある。その関係からアメリカンフットボールの公開試合でYCACの対戦が決まった」という。 その当時、ポールはアメリカンフットボールの普及に先立って、大学野球の振興にかかわっていた。特に米国での聖路加国際病院建設募金から帰国した昭和6年には、6大学野球リーグを立教大が制覇したことから、翌7年4月、立教大野球部15人の米国遠征を大学体育主事のジョージ・マーシャル教授と企画した(彼は2年後にポールとともにアメリカンフットボール連盟の創立にも参画)。 米国における学生交流で、立教大の選手一行はシアトル、デトロイト、シカゴ、フィラデルフィアと大陸を横断し、各地で盛大な歓迎を受けた後、遠征のハイライトであるニューヨークでアイビーリーグの優勝校であるエール大との対戦を実現させた。この試合で、立教はエース左腕の菊谷正一の剛速球が決まり、6-1で圧勝。ニューヨークの目抜き通りを車でパレードするという破天荒な日米交流風景を展開した。 試合の前日には現地の一流クラブで、米国プロ野球界の球聖ベーブ・ルースやルー・ゲーリックが出席して、立教大チームを迎える大晩餐会まで開催している。ポールは結局実現しなかったが、立教の野球部員をハーバード・フーバー大統領に表敬訪問させることまで画策した。ポールのオーガナイザーとしての能力はとびっきりの一流だったが、聖路加120億円募金で築いた米国財界の超一流の人脈が、そのパワーの源泉だった。 ◇「天皇家を守り、日本国民を救済する」・・・父ポールのミッション 話を今回のテーマに戻そう。ポールは昭和20年9月26日、米国から東京に帰還すると直ちに米国太平洋陸軍(AFPAC)の幕僚部に着任した。AFPACは10月2日、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)に移行し、皇居前に位置する第一生命ビルで、日本の占領統治を開始した。 一方、米国政府は、GHQの発足と同時にマッカーサー元帥に対して、極東国際軍事裁判所の設置と、天皇を戦犯に問えるかどうかのすべての証拠を収集し、報告するよう指令を出した。 GHQでは直ちに、この調査報告の特別任務のために専門部としてCIS(民間諜報局)が設置された。任務は緊急を要していたが、問題は誰に任務が遂行できるのかということだった。異国の占領軍の兵士に証拠が何であり、何処にあるかなど分かるはずもなかった。 そこでGHQは全将兵の経歴を調査し、ポール・ラッシュを調査報告の編集チーフとして起用することになった。昭和16年12月8日の日米開戦に至るまで立教大教授として17年間に及ぶ、教育界のみならず政財官、また宗教界など幅広い人脈と経験を評価されての任命であった。 GHQは昭和20年11月16日、特別命令160号でポール・ラッシュを少佐から中佐に昇進させると共に、CISにおいて戦争犯罪にかかわる資料収集編集を担当する課のチーフとする正式人事を発令した。 もとよりポールは、戦前からの教え子、知人、友人、そして日本国民を救済するために、占領軍の将校として日本に帰還したのである。この特別任務は、ポールの望むところであり、「天皇家を守り、日本国民を亡国の惨状から救済すること」がポールの第一義の使命となった。 戦前から聖路加国際病院などの交流活動を通じて、皇室の姿を見てきたポールにとって、昭和天皇は平和主義者であり、「君臨すれども統治せず」という立場で、政治から超越していた。ポールの理解では、実際の天皇の宮中での仕事は日本古来の文化を継承し、守ることだった。天皇家はその活動により国民の敬慕の中で存在してきたのであって、政治権力をもって国民を統治したのではないことは、ポールにとっては明白であったが、その証拠が必要だった。 ◇東京裁判の重要な証拠資料を作成した功績 ポールのセクションでは戦争犯罪に関する資料を収集するとともに、米国日系二世兵と日本人からなる混成スタッフ(その中には後の神奈川県知事・長洲一二氏も在籍した)により英訳文書として編集し、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷に提出する作業を行った。ポールが天皇の戦争責任について免責とする証拠資料として提出した資料のうち最も重要なものは「原田日記」と「木戸日記」である。 ポールは、この編集作業があまりにも重大な内容を含んでいるため、作家の里見ク、岩波書店の吉野源三郎、哲学者の久野収等を極秘にオフィスに招き、監修をさせている。後に歴史学者は両日記を称して「昭和史文献の双璧」と評するほどの価値があった。(岩波書店は後に原田日記を「西園寺公と政局」として公刊) 原田日記は、最後の元老である西園寺公望公爵の秘書だった原田熊雄男爵が西園寺の折々の談話をメモしたもの。一方、木戸日記は、内大臣として昭和天皇の側近を務めた木戸幸一侯爵が記した。彼は昭和15年西園寺公の死後、天皇側近ナンバーワンとして絶大な影響力をふるった。どちらの文書にも軍部独走を止めようとして出来なかった天皇の立場が克明に記されていた。 特に原田日記は宮内省の奥深く保管されていたが、ポールが自ら交渉にあたり、ポールの個人名でサインした借用証によって確保した。この時点でポールが天皇家を守るために行動しているという情報は交渉に当たった松平康昌侯爵から皇室に伝達されたという。 多くの関係者の証言により、ポールは、東京裁判に先だって、GHQの参謀部が天皇の戦争責任を検討する将官の最高会議において、ただ一人の佐官として調査報告を行ったと言われる(このことは守秘事項にあり、ポール自身は黙して亡くなった)。 そのなかでポールは、天皇家の役割について「日本の歴史を見ると、軍事と政治の実権は鎌倉幕府より軍人政権である幕府が担当してきた。皇室は政治とはかかわりなく存続してきた。そのなかで太平洋戦争の開戦は軍部の独走による」と報告し、その上で「天皇は日本国民にとって、国民の文化的な価値観と誇りの根源であり、仮に天皇を戦犯として処刑するならば、日本人は失望し、混乱ははかりしれないものとなり、占領政策は困難なものになる」と、マッカーサー元帥に天皇の訴追回避策を進言したと言われる(複数の立教大OBの証言による)。 マッカーサー元帥も総司令部での何回かの天皇会見を通じて、その誠実な人柄に感銘を受けており、ポールの報告もあって、最終的に昭和天皇の無罪を決定したと言われる。皇室を守る動きは、日米両国でさまざまあったが、その中でもポールの果たした役割は大きかったと言える。 ◇日本人の命運を自らの双肩に担おうとしたポールの生き様 ポールの進言は、天皇は日本の歴史を通じて伝統的な文化や誇りのシンボルとして存在してきたのであり、GHQはそのことを尊重し、民主化のシンボルとして日本復興政策を円滑に進めるべきというものである。このあたりから象徴天皇という概念になっていったのではないかと思われる。 だが、ポールが目の前にしている現実は、のんびり議論をしてすませられるものではなかった。日本人という民族が、この亡国の廃墟の底から立ち上がれるのか。緊急事態のなかで、ポールは軍人である前に宣教師であり、真に願ったのは、天皇が「平和の器」あるいは聖書に記された「平和をつくる人」となって、国民と共に悲しみ、国民と共に喜び、国民とともに国家再建のために歩いていく姿であった。 また昭和天皇も自らその道を選択され、昭和21年1月1日の「新日本建設に関する詔書」、俗にいう人間宣言の冒頭で、明治天皇が国是とした「五箇条のご誓文」を引いて民主平和国家の再建を誓うとともに、2月19日天皇自らの発意で地方巡幸を開始された。それは、戦争で傷ついた国民を慰め、また戦争で亡くなった国民を鎮魂・慰霊するために全国を巡礼する旅であり、昭和天皇亡き後、平成天皇に引き継がれ、現在も長い長い巡礼の旅が続いている。 その姿がどれほど国民の心を動かし、生きる希望をもたらしてきたのか、計り知れないものがある。まさに「平和の器」として使命を果たしてこられたのである。 ポールの真意を知った皇室とポールの交際は次第に深まっていった。皇室の想いは、ポールが戦後日本の復興のために、米国民の支援を得て山梨県の八ヶ岳山麓の清里でモデル農村センター・キープの建設に着手したことで深いものになっていった。昭和天皇が山梨県巡幸のおり、当時の山梨県知事に「清里で計画が進んでいる農村センターの計画は日本のために重要なので支援をお願いしたい」と言われたことでも明らかである。 ポールが八ヶ岳山麓の山深い村で起こした事業は社会革命ともいうべきもので、このときポールは既に50代を過ぎていたが、突き動かしていたのは飢餓、疾病、貧困の中で絶望の淵に立つ日本人民を救いたいという「使命感」であり、ものすごいエネルギーで、日本人の命運を自らの双肩に担おうとしていた。だから、この時期、その思いを共有する吉田茂や鳩山一郎ら日本の最高指導者がポールのCISオフィスを相談に訪れていたのである。特に吉田茂は友人として、しばしばポールがプライベートに催すパーティに参加していた。 昭和23年1月、ポールが東京の神宮競技場で第1回ライスボウルを開催し、「Here we are again」とのメッセージとともにキックオフを行った同じ時期に、彼は並行して清里で農村復興の祈りを捧げる聖アンデレ教会完成と農民の医療救済のための清里聖路加診療所の着工について最後の打合せを行っていた。 その教会落成式と診療所起工式は同年6月13日、清里で行われ、皇室から高松宮が臨席された。ポールが日本の農民救済のため、清里のモデル農村建設事業に専念するようになると、宮家はたびたび清里のポールのもとを訪問された。 ◇天皇皇后両陛下が日本フットボールの殿堂を訪問された日 ポールの農村改革は、全国への酪農普及の成功と、昭和40年代の高度経済成長のなかで当初のミッションを完了した。彼は昭和54年12月12日亡くなり、日本の清里を永眠の地としたが、国内ではその功績も忘却の彼方へ追いやられようとしていた。 今上天皇、皇后両陛下と紀宮(黒田清子)様が清里高原のポール・ラッシュ記念センター・日本アメリカンフットボールの殿堂を訪問されたのは、ポールの没後26年目の平成17年8月31日のことであった。 両陛下と紀宮様は、その1年前の8月29日に記念センターとフットボールの殿堂へのご訪問を予定されておられたが、台風の影響により延期となっていた。今回の清里ご訪問は、両陛下の個人的な強いご希望により実現されたという点で、特別な意味を持った行幸啓であった。また、このご訪問は紀宮様が11月に結婚される前の最後の家族旅行であり、その目的地として清里を選ばれた。 天皇陛下は、日本の近代酪農やアメリカンフットボールの普及に貢献したポールの業績に関する展示資料をつぶさにご覧になられた。それから、陛下は清泉寮において昼餐会を主催され、招いた地元の関係者に「ポール・ラッシュさんは立派な方でした。日本のために貢献された方でしたね。これからも大事にされるようお願いします」とお言葉を賜った。 この深い思し召しにより、ポール・ラッシュの皇室に対する想いは清里でクロスし、成就した。それは感動的な「真実の瞬間」moment of truth であった。 日本フットボールの戦後復興の中で、父ポールの重要な働きはこういうことである。 彼は関東フットボール連盟の創立を企画し、戦争でスポーツが廃絶された後、戦後再びフットボールや中等学校野球を復興するために競技関係者を励ました。そのとき、彼は皇室を守るためのスペシャル・チームのチーフであり、作戦行動に奮闘していた。それは無関係な別の行動ではなく、日本の平和を再建するためのミッションとして、皇室もフットボールもどちらも同じようにポールにとっては重要であったということだ。 彼は真の宣教師であった。日本の歴史が始まって以来のどん底に陥った時代に国家再建の方向を指し示し、悲惨な現実の中にあって身命をかけて自らの行動によって時代精神を突き進んだ。そうした大人物を日本アメリカンフットボールは「父」と呼んでいるのである。 (Episode-4に続く) ===== 井尻俊之:「清里の父ポール・ラッシュ伝」「1934フットボール元年 父ポール・ラッシュの真実」著者、山梨県アメリカンフットボール協会理事。 |