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山梨県アメリカンフットボール協会理事 井尻俊之 | ||
◇連盟設立当初から夢見た専用グラウンド アメリカンフットボール専用競技場の建設は、75年前東京学生アメリカンフットボール連盟が発足した当初からの夢であった。 連盟の創立メンバーであった故小川徳治氏の証言によると、連盟は日本で初めてスポーツのシーズン制を学生スポーツに導入し、学生が多様な競技生活を楽しめるよう改革を行なった。これはNCAAルールに準じて10,11,12月を競技シーズンとし、1〜8月はスクリメージ程度は良いが、ゲームは行なわない。この間、学生は他の種目のスポーツを楽しむことも出来るわけである。だが、大きな問題点があった。アメリカンフットボールだけが1シーズン制では、オフシーズンのときに他の部に選手が取られてしまい、戻ってこれなくなってしまうのである。そのため、せっかくの改革もなし崩しとなってしまった。 そのシーズン制改革と並び、連盟発足時のポールの夢は「まず1つがシーズン制、2つに防具を日本で作ること。3つに専用グラウンドを作る。この3つがポールの夢だった。防具はなんとか国産化したが、専用グラウンドは見果てぬ夢だった」と創設期の防具の国産化を推進、競技場の手配など実質的な連盟活動の推進に貢献した故小川氏は語っていた。 昭和9年、学生リーグの最初のシーズンは、立教大グラウンドなどで行なったが、翌年にはシーズンを前に、ポールをはじめ連盟役員は、早くも競技場確保の議論を戦わせていた。競技普及に必要な防具を確保するには、多額の費用がかかることから、公式戦では入場料を取って収益を確保することを最初から計画していた。しかし、当時の実情では入場料を取れる競技施設は、明治神宮競技場しかなく、他のスポーツ競技団体との兼ね合いもあり、スケジュールの確保は容易ではなかった。 「これからアメリカンフットボールを確実に発展させていくためには専用競技場が必要である。それにデーゲームではお客も集まりにくい。どこかでナイトゲームが出来ないものか。これが実現すれば少しでも連盟や各大学チームの経費が捻出できる」 連盟の役員会ではポールの「夜間試合」という突拍子もないアイデアに驚きつつ、感心し、ただちに行動を開始した。聖路加国際病院の建設募金の成功で、その当時の日本では最高レベルのファンド・レイザー(募金屋)であったポールの「照明設備にかかる費用は私がなんとかする」という頼もしい言葉を頼りに、候補地として芝公園陸上競技場が浮上した。 ポールの資金繰りには当てがあった。昭和初期、米国の文明の利器として自動車などの近代製品が日本で市場開発に乗り出していた。ポールがターゲットとしたのは、フォード自動車、シンガーミシンである。アメリカンフットボールという米国を代表するスポーツ文化を新たに普及するのであるから、今日でいうところの「企業の社会貢献」として協力を求め、連盟設立から1年もたたないうちに芝公園陸上競技場に6機の照明設備を取り付けてしまった。 ◇連盟創立2年目で早くも夜間専用競技場を確保した手腕 しっかりしたビジョンさえあれば、カネがなくても知恵と人脈を出せばよい。そして、カネのあるとこから引っ張り出せばよいという単純明快な行動哲学がポールの強みである。 昭和10年度の東京学生リーグ戦は10月19日、芝公園陸上競技場で開幕し、公式戦10試合の全日程を同競技場で実施した。照明設備は自分達で拠出したわけだから、ナイトゲームの利用については、連盟の専用競技場だったわけである。また、当時としては珍しいナイトゲームのおかげで、野次馬を含めたファンを集めるには、大きな効果を発揮した。 われわれは、ここでもフットボールの先輩達の歴史に学ぶことができる。思い立ったら直ちに行動するDO YOUR BEST精神である。ポールの教えは「どうせやるなら、とびっきりのお手本をみせてやれ。お前の事業は神の栄光のもとにやるのだから、誰の参考にもならない二流はだめだ。一流のプレーを見せてやれ。そのために最善を尽くすのだ」。当然、その生き方は苦しいし、厳しい。だが、目標が定まれば、計画が生まれる。あとはそこに向かって、突進していく生き方はポールのダンディズム、男の美学である。われわれがフットボールに関わった男として生きていくのであれば、覚えておいて良い言葉だ。 ポールは、終戦直後GHQの将校として勤務する側ら、再びアメリカンフットボールの専用競技場の構想づくりに着手していた。その母体となったのが21年12月23日に設立した「セントポール・クラブ(立教倶楽部)」である。 この組織は戦前からのポールの友人や立教大学の教え子で構成し、日本人と連合国軍将兵との相互理解を深めるための事業を行うためと、設立趣旨にうたったが、実際はポールが始めたアメリカンフットボールの組織再興や立教大学の復興支援、聖路加国際病院の支援、戦前ポールが創設した八ヶ岳山麓清里・清泉寮の修繕などのさまざま社会事業の資金を捻出することが本当の狙いであった。 ◇帝国ホテルの隣に計画された日本版マジソン・スクエア・ガーデン 倶楽部の事務所と会場をできるだけGHQの近くに置きたいと考えたポールは、付近を物色し、なんと完成したばかりの毎日新聞社東京本社新館ビル(後に有楽町電気ビル、外国人特派員協会)の8階を“接収”してしまったのである。当時の毎日新聞編集局長がポールに宛てて送った文書が残されており、「毎日新聞のスタッフは、あなたや他のGHQオフィサーと会合が持てたことを光栄に思います。あなた方が日本を本当の民主主義国家にするために、国際理解を深める事業を支援しようと素晴らしい情熱と関心を持っていることを知り、敬服いたしました。あなたに新館を使って頂けることを光栄に思います」と記されている。 ポールは、毎日新聞からセントポール・クラブのためにわずかばかりの家賃を払って施設提供を受けるばかりでなく、同倶楽部の運営に毎日新聞社の原為雄総務局長、神田五雄編集局長が理事として協力することまでとりつけてしまったのである。役員は会長が松崎半三郎・立教大理事長はともかくとして、名誉会員が高松宮、三笠宮、竹田宮、東久邇宮、主たる会員がGHQ将校とあっては、天下の毎日新聞も到底抵抗できなかったのだろう。 クラブではダンスパーティが開催され、米国製自動車の賞品付き富くじまで売られた。こうしてかき集められた資金は、フットボールや聖路加国際病院の復興、さらにはポールの友人である澤田美喜(岩崎財閥岩崎久弥の長女、現在の歌手安田祥子の義母)が神奈川県大磯に設立したエリザベス・サンダース・ホームの運営資金などにつぎ込まれたのである。 このクラブから生まれた壮大なプランが「日比谷シビックセンター構想」である。自前の会堂を持たない日本聖公会のために大聖堂を日比谷に建設、その周辺を都市再開発し、コンベンションホールやアメリカンフットボールをはじめ各種スポーツが開催できるスタジアムを建設する。イメージとすれば米国ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンを東京のど真ん中に持ってこようというスーパー・プランである。 セント・ポール・クラブの松崎会長の奔走により、22年5月大和生命保険(プルデンシャル ファイナンシャル ジャパン生命保険)より千代田区幸町1丁目1番地の所有地約2万平方米の賃貸契約の内諾を得た。その敷地は明治時代の鹿鳴館跡地。帝国ホテルに隣接するこれ以上はないという超一流の場所であった。事業計画には後楽園スタジアム(現在の株式会社東京ドーム)の田辺宗英社長が賛同し、500万円を出資するとともに新会社の社長に内定した。 ところが、戦後の極度のインフレと建設費高騰、資金難で、この計画は結局挫折し、田辺社長は後楽園スタジアムの経営に専念せざるを得なかった。この当時のプロスポーツは野球のみであったが、もし日比谷シビックセンターが実現していれば、日本のフットボールは、競技発展の強力な拠点を有することとなり、後楽園スタジアムとの兄弟関係のなかで、アメリカンフットボール、そして野球が手を携えて、米国型のまた別の歴史をたどっていた可能性は大きい。 ◇清里に建設されたケネディ大統領記念グラウンド ポールの専用競技場の夢はそれで終わることはなかった。八ヶ岳山麓の清里に建設されたケネディ大統領記念グラウンドにその壮大な計画が残されている。 それはポールが八ヶ岳山麓の清里でキープ協会の農村改革事業に専念しているときのことだった。昭和36年1月20日、米国35代大統領としてジョン・F・ケネディが就任した。 ケネディ大統領は、就任演説で「米国の市民諸君よ、国家があなたのために何をしてくれるか問うなかれ。あなたたちが米国のために何をなしうるかを問うてほしい」と語った。この新しい政治スタイルを持ち込んだリーダーは、さらに、「人類の共通の敵」である独裁政治・貧困・疾病および戦争と戦うために、米国民ばかりでなく、世界のリーダーがともに参加するよう訴えた。 ケネディが最初に行なった施策の一つが「平和部隊」を創設することだった。米国の若者の志願によって組織される平和部隊は、教育、農業、保健衛生や建設の部門で友好国のボランティア支援にあたる。 このケネディの平和戦略に、ポールは「彼こそ、現在の世界が求めていたリーダーである」とすっかり感激してしまった。なぜなら、ポールが戦後の日本復興のために活動してきた理念が、平和部隊の政策としてケネディ大統領により具現されたからである。 すなわち、ポールは、支援を必要とする発展途上国の現場で現地の人と一緒に働き、モノを一方的に与えるのでなく、「自助の精神」にしたがって「help people to help themselves ヘルプ・ピープル・トゥー・ヘルプ・ゼムセルブズ」。現地の人とともに汗をかき、ともに喜びと悲しみを共有してきた。それこそ、東西の核戦争の危機のなかで、平和をもたらす唯一の方法であると確信し、ひたすら行動してきた。そして、日本の山間高冷地を、酪農と高原野菜による緑したたる沃野に変えた。 ◇米国で「ミスター・アメリカ」と呼ばれたポールの偉業 ポールが編み出した米国民が草の根レベルで海外の開発援助を行なう手法は、既に昭和31年3月、米国上院において「キープ・日本の農村開発」として、米国が理想とするべき海外援助のあり方として顕彰されている。実際に米国上院は「ノンアグリー・アメリカン(醜くない米国人)の活動のための議員調査チーム」を清里・キープに派遣しているのだ。 さらに、米国CBS放送は昭和34年11月10日夜のラジオ特番「隠れた革命」において、「偉大なアメリカの文明が世界に善意を伝えるには、どう行動すればよいのか。そのモデルはポール・ラッシュと日本の清里農村センターだ」と紹介したのである。 番組のパーソナリティは、メディア草創期のアメリカに吹き荒れた言論弾圧の嵐に勇気を持って立ち向かい、ジャーナリズムを貫いたCBSニュース・キャスターのエドワード・マーロウである。不屈の闘志を持ってジャーナリズムの第1期黄金時代を築いた男。「CBSの良心」と言われた。 マーロウは番組のなかで「アメリカが自由世界のリーダーとして行動しなければならない時代、そしてアメリカがソ連とともに人類の生死に全面的な責任を持った時代、その時代にわれわれが何者であり、世界に何をしなければならないかを知ることが極めて重大なのだ」と米国民に語り、その行動モデルとしてポールを「ミスター・アメリカ(本物のアメリカ人)」と呼んだ。番組にはニクソン副大統領が出演し、米国はポールをお手本とする意義について賛同した。 マーロウが特番で語った文脈、あるいは問題意識と言ったものが、上述したように、そっくり2年後のケネディ大統領就任演説に盛り込まれていることは、驚くばかりであり、ポールの海外援助の手法「キープ」が、ケネディの平和部隊のモデルの1つであったことは、ほぼ間違いないだろう。 だが、昭和38年11月22日、ケネディ大統領はダラスにおいて凶弾に倒れ、ポールのケネディへの思いも無残に打ち砕かれた。そこでポールは、ケネディの平和戦略の理想を極東の日本の地に刻み込むために直ちに行動を開始した。陸上自衛隊第2施設隊の協力により、清里農村センター内の森を開拓し「ケネディ大統領記念グラウンド」を建設してしまったのである。夢はアメリカンフットボールの競技場であったが、現実には最初馬術競技の馬場ほか多目的運動場として使用された。だが、グラウンドに隣接して、ポールとともに日本のフットボール普及に貢献した故松本滝蔵氏(殿堂入り)の記念ユースキャンプ場が建設されている。また、現在でも国内唯一ケネディ大統領の名を冠した記念施設である。この施設が活用されれば、再び日米のスポーツ交流に新しい可能性を切り開くことになろう。 ◇日本アメリカンフットボールの殿堂と記念フィールドの誕生 信じられないことであるが、ポール亡き後もポールのフットボール専用競技場の夢はまだ続いている。その発端は昭和63年、山梨県で初めて開催されたポール・ラッシュ祭〜八ヶ岳カンティフェア〜のイベントの一環として開催され、現在も継続しているラッシュ・ボウルである。父ポールの競技普及にかけた理想を継承しようと開催されたゲームがきっかけで、翌平成元年山梨県アメリカンフットボール協会が設立された。 ラッシュボウルには関東、関西の心あるフットボールOBの支援が寄せられ、その話し合いの中で平成5年11月17日午後5時半より東京・新高輪プリンスホテルにおいて、フットボール関係団体サミットが開催され、清里のキープ協会敷地内のポール・ラッシュ記念センターに隣接して、「日本アメリカンフットボールの殿堂」を建設することが正式決定され、殿堂記念グラウンドの建設に取り組むことも了承された。殿堂の建設資金は全国の団体役員や選手が募金協力することとなった。 サミットに出席したのは、日本アメリカンフットボール協会・笹田専務理事、日本社会人アメリカンフットボール協会・金沢理事長、日本学生アメリカンフットボール協会・鈴木理事長、関東学生アメリカンフットボール連盟・水田理事長、日本アメリカンフットボール審判協会・薮内部長、山梨県アメリカンフットボール協会・小宮山会長、そしてキープ協会・小林理事長その他である。 日本アメリカンフットボールの殿堂が平成8年3月28日に完成し、高円宮殿下のご臨席のもと盛大な落成式典が虚構されたことはEpisode-4に記した。 日本の殿堂の地を清里と決定した理由は、フットボールの父が眠る地であり、日本列島のほぼ中心にあること。また米国プロフットボールの殿堂がオハイオ州キャントンという都会を離れたローカルに設置されている事例も参考にしたものである。 同地ではシーズンイン直前の8月に殿堂入り表彰が行われる。式典に続き、殿堂に付帯する「殿堂フィールド」で、記念ゲームが開催される。この栄誉の行事には、地元のキャントン市、商工会議所などが協力し、数ヶ月にわたる「殿堂フェスティバル」として、一大観光ページェントを繰り広げる。 日本の殿堂建設が決まったころ、清里では大規模なバイパス工事が行なわれており、その残土が、キープ敷地内の傾斜面を埋め立てていた。JR清里駅近くにあり、その面積およそ3万平方米。周囲は南方に富士山を望み、西方に南アルプス、北方に八ヶ岳、東方に瑞牆山(ミズガキ山)とずらり日本百名山の霊峰が屹立し、360度のパノラマ景観をなす様子は、まさに地上の聖地といった風情である。 結局、殿堂記念フィールドは、この用地に設置されることとなり、「ポール・ラッシュ記念フィールド」と命名された。平成20年夏より一般利用の供用が開始されたが、まだ整備は十分ではなく、天然芝の養生、仮設スタンドの設置などまだこれからである。 現状では関東周辺の夏期交流ゲームや合宿に使われており、今夏6月14日には浅田豊久理事長をはじめ関東学連の役員が清泉寮で理事会を開催し、ポール・ラッシュ記念フィールドで行なわれた立教大−桜美林大の交流ゲームを観戦した。今後ポール・ラッシュ・メモリアルゲームとして、毎年継続していくアイデアが生まれている。 現在、清里にはケネディ大統領記念グラウンドとポール・ラッシュ記念フィールドという2つの施設が存在している。そこは崇高な名前にもかかわらず、現状は、はっきり言えば草ぼうぼうだ。だが、そこはわれわれのフィールド・オブ・ドリームだ。いつかきっと人々はやってくる。夢は永遠に輝き続ける。われわれが夢見ることをやめない限り。 The Dream Goes On. (終) ===== 井尻俊之:「清里の父ポール・ラッシュ伝」「1934フットボール元年 父ポール・ラッシュの真実」著者、山梨県アメリカンフットボール協会理事。 75周年記念特集連載『フットボールの父 ポール・ラッシュの真実』をお読みになったご意見・ご感想をお寄せください。 メール info@kcfa.jp またはファックス 042-440-0882 でお願いたします。 |